ゆうゆう85号

2013年10月21日発行

日ごろな一枚

              





茅ヶ崎にて。



  奥に見えるのは、「烏帽子岩(えぼしいわ)」です





 新宿ライフケアセンターの理事長であった三澤了さん(享年71歳)が、去る9月30日に亡くなられました。

 三澤さんは1988年に発足した新宿ライフケアセンター発起人の一人であり、その後も代表として新宿ライフケアセン
ターの活動を支えてこられました。9月に入って体調を崩し入院していたのですが、29日に容態が急変して帰らぬ人と
なり、本当に残念です。



 三澤さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。

                                       NPO法人 新宿ライフケアセンター 事務局一同

   
     
    
  



哀悼の辞   新宿ライフケアセンター理事 刈谷 裕



 平成25年9月30日、午後10時を少しまわった頃、新宿ライフケアセンター(以後はケアセンターに省略)から電話が
かかって来た。代表の三澤了氏が亡くなったとの報せを受けた。最初は、哀惜の念のみであったが、しばらく時間が経
つと、私にはあまりなじみのない感傷的な気分というか、懐古的というと笑われるかもしれないが、実際古い戦友を亡く
したような気持ちに自分自身戸惑ったことを覚えている。三澤さんとは、6月の総会で会って以来一度も会っていない。
電話のやりとりも無かった。私自身の体の不調もあり、彼の病気のこともあって、ここ何ヶ月か疎遠になるのは別に不
思議なことではないが、もともと彼との付き合いは、一時期を除いては希薄なものであったように思う。

 その一時期というのは、ケアセンター創設の時代のことである。その頃つまり三澤さんと出会った頃でもあるが、二人
共重度身体障害者の看板をぶらさげてはいたが、立場はまったく違っていて、彼は福祉の三澤と呼ばれる程の運動家
であったが、私は障害者福祉というより、福祉活動そのものに全く関わったことがなく、同じ障害者であるかみさんにた
まに啓蒙される程度の知識しかなかった。

 ここで名前を明記するのは避けておくが、ケアセンターを新宿の町につくりたいと言い出した有名な某氏がいる。この
辺の所をくどくどと書くと切りがないので省略するが、ともかくは紆余曲折の時期を経て、ケアセンター創設準備会なる
ものが出来上がっていった。名前だけはご立派だが、本当にケアセンターが出来ると考えていたのは、発案者である
某氏と、三澤さん位のものだったかも分からない。かくいう私等は其の内に内ゲバを起こして、空中分解するであろう
と、たかをくくっていた次第である。この頃三澤さんとよく揉めた。二人共手足が悪いのでとっくみあいの喧嘩は流石に
しなかったが、傍から見れば非常に滑稽だったと思う。なんで、あれ程仲が悪いのにいつも一緒にいるのかと思ったか
もしれない。ともかく三澤さんも頑固だった。確かに正論は口にするが、現実的な所での妥協は出来ない。こちらはこち
らで、少しずつ本気になり、それなりの勉強を少しはして来たので、創設に関わる技術的な部分もしくは、人手の無い
金は無い状況の中で、どのように折り合いをつけ集って来た学生達のやる気を持続させていくか等々、今から考えると
あの頃は一番苦しかったが実際は楽しかったかもしれない。こう書くとすごく真面目一方の集団のように思われそうだ
が、なんのことはない徹夜でマージャンを打ったことは有るし、何が入っているのか作った奴にも良く分からないような
鍋をつっついたことも何回かは有る。因みに人のことはあまり言えないが、三澤さんのマージャンはかなりヘボだったよ
うに記憶している。ただし、カラオケは声も良かったし上手かった。

 ケアセンターの誕生秘話を書くつもりで、こんなくどくどしいことを書いて来た訳ではなく、世界の三澤! とか、福祉の
三澤! とか、三澤先生! と呼ばれるだけの見識もあり、それに見合うだけの努力も尽くしていることも、ケアセンタ
ーに関わったみんなが良く知っていることではあるけれど、そういうイメージではなく、もっと人間くさい親しみのある、見
掛けによらずロマンチストであった三澤氏に接して来たように感じられる。まるで車イスに乗ったギャングよろしく、顔の
大部分をマフラーで隠し、トレードマークの帽子を深々と被って、「寒い! 寒い!」といいながら会議室に入って来る三
澤さんの姿を今でも思い出す。新宿ライフケアセンター二代目代表として、24年余の時代が終わった・・・。三澤さんや
私そして途中で去っていった多くの仲間達の掲げた理想も少しずつ変失していくであろうし、次の時代を引きつぎ新しい
コミュニティを築いていく、メンバーに期待し、一つの時代の終焉を認めよう。

 どんな団体であろうと、組織であろうと、世代交代は必ず来るものである。長きに渡って、会長であり続けてくれた三
澤のおやじに心から、御苦労さんといいたい。

 最後に、三澤さんとはよく議論をしたが、中でも一番印象に残っているのは、プライバシーの問題についてだが、三澤
さんのいったひとことは、「プライバシーなんてものは、どれだけ大事なのかは良く分からないが、例えば僕にとっては、
まったくといっていい程無いに等しい。何故かというと24時間寝ている間も含めて、誰かに見守られてないと生活でき
ない・・・」こういう議論も毎度のように、決着等つかずに終ったと記憶している。何年程前か覚えていないけれど、大久
保通りと、明治通りの交差点から程近い所に車イストイレのついたパチンコ屋が出来た。例にもれず私もすぐに行って
見た。ケアセンターの他の障害者も少しの間通っていたと思う。そこ迄は驚くに値する程のことではないが、あの多忙な
三澤さんが、ゲームに熱中している所を目撃するに至った。ただ話を聞くとだいたいいつも、閉店間際にやって来る。
蛍の光がかかり始めてから登場することもあったそうだ。「あんなに遅く来て、儲けもなくてストレス解消になるんですか
ね」と誰かがいっていた。私も同様の疑問をいだいたが、何年かして新聞でこんな記事を目にした時、なるほどひょっと
したら三澤さんもこれだったのかなと変に納得したことがある。新聞の内容は、この多忙なる現代社会において、自分
自身を取り戻し、自分の自由を感じられる場所はいったい何処なのか、アンケート調査の結果を記載した記事だった。
まずトイレの中が12%、一家団欒の茶の間が16%、趣味でいくゴルフとかスポーツ一般20%、パチンコ台に向き合
っている時40%等々、こんな記事であった。あの騒がしいガチャ、ガチャした機械音と共に、店員の業務連絡が聞こえ
る、しかもBGMの、蛍の光迄ついてくる、ちょっと信じられないことだが、三澤さんにもやはりプライバシーも必要だった
のかもしれない。そして、私の勝手な思い込みかもしれないが、なんとなく親しみを覚えたエピソードである。

 我々の会長であった三澤了氏に哀悼の念を送ると共に、故人の安らかなる御冥福を祈りたい。        以上







 三澤さんを「偲ぶ会」は、年明け以降、改めて開催される予定です。偲ぶ会については、三澤さんが力を注いでこられたDPI(障害者インターナシ
ョナル)日本会議が中心となって行います。お問い合わせ等につきましては、新宿ライフケアセンター事務所までご連絡いただきますようお願い申
し上げます。





役員変更のお知らせ

 三澤理事長の死去に伴い、10月22日に理事会を開催し、畑山正子副理事長が新たに理事長として就任いたしました。10月22日付にて左記
の通り新役員体制となりましたので、お知らせいたします。

 今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

理事長 畑山正子 ・ 副理事長 阿部浩 ・ 理事 刈谷裕/草野雅史 ・ 監事 杉森知子





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