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 ゆうゆう110号

2018年11月 7日発行

1.古地図で見る 新宿区@

         〜山吹の里はどこへ
2.ケアセンターあれこれ

3.流しそうめんしました

4.お知らせ


 日ごろな一枚

         

歩いていたらふと目に飛び込んできた柿の木。

自分の家にも柿の木があったらな〜、なんて思いながらシャッターを切りました。

実りの秋。旬のものをたくさん頂きたいですね。




1.古地図で見る 新宿区@

       〜山吹の里はどこへ



 さても東京で生きていますと、あまねく広がる建物と道の多さにはいつも驚かされます。世界でも有数の都市ですから当然ですが、平安の昔、都会っ子の在原業平(ありわらのなりひら)一行が隅田川を渡る最中にド田舎過ぎて泣き出した逸話を思えば不思議なものです。「今歩いている辺りは昔どうなっていたんだろう?」誰もが思う疑問ですが、ここ大東京なら江戸時代からの古地図がいくつもあります。インターネットや、図書館に足を運べば簡単に昔の姿を知ることができます。今回はケアセンターの事務所がある、早稲田の周辺を見てみましょう。



 江戸の都市開発が本格化したのはもちろん徳川幕府が成立して以降のことで、明暦の大火は大きな契機となりました。明暦3年(1657年)、本郷から連鎖的に出火し、当時の市街地の6割と数万人を焼き尽くしたこの惨劇は、幕府に道路拡大・火除地などの防災機能や、隅田川以東への領域拡大などの都市改造を促します。


     


では、その頃早稲田はどうなっていたのか、@の地図はまさにその直後のものです。見ての通り、畑ばかりで、大火の被害も全く無しでした。地図では畑と一緒くたにされていますが、当時ここにあったのは戸塚村や下戸塚村、源兵衛村、早稲田村などの農村で、戸山ハイツや戸山公園の元となった尾張徳川家の戸山荘なんかはまだ影も形もありません。でももうすでに四角四面の高田馬場と穴八幡はあるんですね。高田馬場は今の西早稲田3丁目の辺りで、読んで字の如く馬術の練習や流鏑馬が行われました。高田の名は元々この地が高田殿(家康の側室)の為の庭園だったという説と、またこの一円、神田川を渡った豊島区高田や、中野区上高田まで含めた地名「高田」と結びついたという説もあります。現在高田馬場は跡形もなく、町名として残っている場所とズレているのは、明治43年にできた山手線の高田馬場駅に由来しています。

 では、今度はその200年後、安政の大獄の恐怖冷めやらぬ1859年のAの地図をご覧ください。まだまだ早稲田通りの形も無くて駅の方は畑ですが、馬場の周辺は植木屋や茶屋、以前ゆうゆう106号でご紹介した水稲荷神社などもあり、それなりに賑わっていたようです。ところで、今の西早稲田の3丁目に当たる清水徳川家の下屋敷(清水殿)の隅に小さく『山吹の里』と書いてあるのが見えますでしょうか。実はこれはこの土地一帯に関わる、とある『伝説』が関わっているのです。


       


   


 その前にちょっと一問。江戸城を建てたのは誰か? 答えは実は徳川氏では無く、太田道灌(どうかん)という室町時代の武将が主君から命を受けて築城したのが大元で、家康はそれを増改築して天下の居城と為さしめたのです。往時の道灌は江戸城の城主として江戸を治め、外敵に睨みを利かしていました。


 さて、伝説と言うのは、ある日彼が鷹狩りに出た時の話です。急に雨が降り始めて、傘も何もなく困った道灌はある農家の家を訪ねました。すると一人の少女が出てきて、「雨具を貸してくれ」と彼が頼むと、彼女はそっと山吹の枝を差し出します。粗野な武将は首を傾げますが、少女は言わず花は語らず。結局彼がその家に雨宿りしたのか、濡れ鼠になったのかは知れませんが、とにかく怒った彼は城に戻って部下にこのことを話しました。部下は訳知り顔で一首の古歌を紹介します。


    七重八重 花は咲けども 山吹の

    実のひとつだに なきぞ悲しき

     

 つまり、「実の」と蓑(みの)が掛け言葉で、彼女は「申し訳ありませんが雨具はありません」ということを山

吹の花に託して伝えていたのです。自分の無知を恥じた道灌はこれ以後歌道に励んで一角の歌人、その農家の一帯は山吹の里と呼ばれるようになった、と言うのが伝説のあらましです。


 この伝説は江戸時代に人口に膾炙し、落語や歌舞伎にまでなります。早稲田の周辺にもこれに因んだ所が幾つもあって、例えばかつて甘泉園の辺りには『山吹の井』という泉があったとか、水稲荷には道灌が鷹狩りの際に馬を留めた松(現在は3代目)があるだとかです。山吹の枝を渡した少女のお墓もあって、これは今の新宿6丁目、大聖院というお寺にあります。Bの現代の地図に見える山吹町もこれにちなむ……というかこここそが山吹の里だと称しているのですが、実は文献資料上はあまり根拠がありません。書かれたものから考えると大体西早稲田3丁目、現在の面影橋駅前の通りから西を山吹の里とされています。しかし、山吹の里を主張しているのは他にも豊島区高田や埼玉県越生など幾つもあります。なにしろ昔のことなので、歴史に残らない言い伝えがたくさんあったのでしょう。道灌が江戸城からふらっと出かけられる範囲ならどこであっても変じゃありません。ちなみにAの地図の『山吹の里』と書かれた辺りには、

どうやら伝説の当時から住んでいたという農家があったそうです。


             


 山吹の里の行方は杳として知れませんが、今と違ってスカスカの早稲田の辺りを見ると、その隙間のどこであってもいいような気がしてきます。古地図は記述が曖昧で、地形の歪みもひどいものですが、得てしてそこにこそ魅力があるのかも知れません。早稲田周辺には他にも、源頼朝や在原業平などの関わるお話があって、田舎なりにたくさんの伝承がある面白い土地だったようです。 (今井 徹)



地図

@「明暦江戸大絵図」(『明暦江戸大絵図』、之潮編集部、之潮、2007年)

A「安政六年分間江戸大江図」(『太陽コレクション「地図江戸・明治・現代」1江戸・東海道』付録、高橋洋二、平凡社、1977年)



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2.ケアセンターあれこれ

8月


・運動会練習会1回


・ジャパンDIYホームセンターショウ2018参加


・流しそうめん&かき氷の会開催



9月


・運動会練習会2回


・「障害福祉サービス等情報公表システム」承認申請


10月


・運動会練習会3回


・国際福祉機器展2018見学


・平成30年度地域福祉振興事業助成金中間報告書提出(工房)





【訃報】

 利用会員である猪手太一郎さん(享年37)が去る9月20日に亡くなられました。第1回目の運動会からほぼ毎年、ご両親と一緒に参加していただきました。 車いす徒競走で優勝したこと、玉入れをチーム一丸で頑張ったこと、大きな風船を力一杯飛ばしたこと・・・。工房の活動では、小学生の授業に協力し、車いすのスポークカバーに絵を描いてもらったこともありました。

 楽しい思い出は尽きません。心よりご冥福をお祈りいたします。

            





3.「流しそうめん」しました!


 去る8月31日、事務所で「流しそうめん&かき氷」をしました!

 初の試みだった流しそうめん。どうなることやらと少々不安はあったものの、終わってみればあっという間で、とても楽しい時間になりました。車いす利用者もちびっこも来てくれて、時折必死になったりしながら(笑)食べていました。参加していただいたみなさま、本当にありがとうございました。楽しかったですね〜。


        


 流したそうめんは、白・赤・黄・緑と、色とりどり。そもそもこんなにいろんな色があることを知らなかったので、ちょっとびっくり。なんだか華やかでした。

 そしてさらにびっくりだったのが、そうめん以外の食材も流すということ。準備している側の経験が乏しく・・・、差し入れでいただいたさくらんぼやかまぼこの存在がとっても新鮮でした。ちびっこにも大人気で、さらに楽しい時間になった気がします。ありがとうございました。

 だけど、こんなに楽しい時間になった最大の功労者(?)は、やはり流しそうめん装置の存在でしょう。事務所の端から端まで雨樋をセッティング。スタート地点の高さはおよそ2メートル。結構な距離を流しました。準備を手伝ってくれたみなさん、お疲れさまでした。おかげさまで、大成功でした。

 

 思いのほか評判が良く、第2弾を希望する声もちらほら届いています。残念ながら今夏の第二弾は実現しませんでしたが、来年は2回3回とできたらいいですね。あるいは、季節外れの冬の開催?

 兎にも角にも、乞うご期待!



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4.お知らせ

新宿ライフケアセンター運動会

 11がつ25にち(日) 13:30〜17:30

 戸山サンライズ体育館


夏休みのお知らせ

   ケア依頼の受付は、下記の期間お休みします。8月13日(月)〜17日(金)まで



                          

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