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ゆうゆう119号

2020年 8月 6日発行

1.新宿区境特集A 〜境にあるもの〜

2.工房制作物紹介 〜ガス湯沸器の操作ボタン

3.新型コロナウイルス感染症について


日ごろな一枚

          

新しくなったJR飯田橋駅の西口駅舎。

急カーブ沿いのホームが原因で電車との隙間がとても広かった飯田橋駅ですが、

改良工事が終わり、ホームが新宿寄りへ約200メートル移設されました。

最大33センチもあった電車とホームの隙間はかなり改善されたそうです。

車いすでの乗り降りもしやすくなったことでしょう!


ホーム移設と新駅舎の完成を記念(?)して、次号あたり、飯田橋駅の今昔物語を

お届け予定です。乞うご期待。





1.新宿区境特集A 〜境にあるもの〜

 「まっすぐ長い立葵の花がてっぺんまで咲くと梅雨の終わりなのだ」と、子供の頃聞いたとき、「花に季節の区切りを見出すとは実用的で風流な話だなあ」と感心したのを今でも覚えています。今年の大雨災害を見聞しますとなるべく早く咲ききって欲しい気にもなりましたが。さて、今回も土地と土地の区切り、新宿の区境についてお話ししていきます。前回は西へ東へ見てきましたので、今回は北と南で行きましょう。


 新宿の北と言えば、やはり落合地区です。前、新宿区を子供の描いた犬のようと言いましたが、それで言えば落合は頭で、よく見ると首根っこで神田川が流れています(地図A参照)。しかし、この少し南、また東でも神田川が区境として中野区や豊島区などと新宿を区切っていることを鑑みますと、ちょっと不思議な気がしてきますね。いかにして犬の頭と胴がくっついたのか、すなわちいかにして落合が新宿の一部になったのか、少し歴史的な経緯を見ていきましょう。

 近世、上落合・下落合・葛ヶ谷という三つの農村であったこの一帯が変化していくのは、もちろん明治政府の成立以降です。近代化を目指す政府が行った様々な改革は地方制度にも及び、藩から県へ、江戸は東京府へ、そしてその下に連なる町や村もまたその名を変えていきます。当初採用されたのが「大区小区制」と言って、これまであった名前は全部無視、幾つかの町や村をまとめ番号を振って小区、その小区をまとめまた番号を振って大区とするという、思い切ったものでした。これによって東京は11大区103小区からなる都市となって、例えば当時の落合の三村ですと西新宿や代々木の方などと併せて「東京府第8大区3小区」と呼ばれるようになり、何とも味気ありません。大区小区制には日本が中央集権国家を目指す為、旧来の慣行を排除し政府が選んだ役人に地方を治めさせるという目的がありましたが、やはりウケが悪くて7年ほどで廃止。代わりに旧来の郡区町村の馴染みある名前とある程度の自治を認める制度となります。東京は15の区と6つの郡になり、落合三村は合併し南豊島郡の落合村として成立しました。この時点での6つの自治体(地図@参照)が現在の新宿区の前身ですが、そのうち2つ、牛込と四谷は15区に含まれています。15区は今の23区の原型であり、明治22年(1889年)に東京市となります。一方の落合は大正になると町に繰り上がり、昭和7年(1932年)、淀橋町(現西新宿周辺)・大久保町・戸塚町と共に淀橋区として東京市に編入されました。そして戦後、昭和22年(1947年)に淀橋・牛込・四谷の3区が合併して新宿区が生まれます。ここまでの流れを見るに、神田川の北にあった落合が新宿の一部となった理由は淀橋区成立時にあると見ていいでしょう。最近出た『東京23区の謎』(浅井建爾著、自由国民社)という本でこの問題について言及があります。それによれば、東京府の当初の案ではやはり落合町は神田川を境にすぐ西の中野区に編入する予定で、しかし都心に近づきたい住民の意向で後から淀橋区に参加したそうです。区境の形成に人間の生々しい思惑が反映されているのだとしたら、ちょっと可笑しいですね。

 続いてはここ、近代ボウリング発祥の地です。神宮球場の傍の駐車場、その片隅に、ポツンと透明なガラスの碑。複数のガラス板を貼り合わせてボールが半分めりこんだような意匠で、中にピンがあしらわれていました。碑文を読めば、「1952年にわが国初のテンピン・ボウリング手動式設備の東京ボウリングセンターがこの地に誕生した」との由。手動式設備と言われてピンと来ない人がいるかもしれませんが、初期のボウリング場は各レーンの裏に「ピンボーイ」と呼ばれる人々が控えていて、ボールがピンを弾き飛ばす度、ピンを並べ直し、ボールをお客の元へ戻しとやっていたのです。結構高給だったらしいのですが暑いしうるさいし、何より跳ね飛んだピンや意気軒昂のボールが常に迫り来る危険な仕事で…………え、これは区境と何か関係がある話なのか? 失礼しました。実はこの碑のあるところが新宿区の南端の区境、そのすぐ傍なのです。それも二つじゃありません、三つ。この碑の前に立つと新宿区と渋谷区と港区を一望できるのです。そんなところにあるのが何だかメモリアルなので紹介しましたが、この東京ボウリングセンターがあったのは港区北青山で、元は戦争で焼けた女子学習院の跡地でした。当初は会員制でお金持ち向けでしたがすぐに庶民や学生にも開放され、3区はもちろん東京中の人々が楽しめる場所へ様変わり。日本にボウリングを広める礎となりました。その跡地は今ではTEPIA(一般財団法人高度技術社会推進協会)という団体の施設になっています。


 というわけで、新宿の区境の歴史、それからそこにあった碑について書いてみました。どちらも気に留めなければ目に入らないものでしたが、一度でも知ってしまえば時間・空間にわたって世界が広がるような感覚を得られました。地図上の区切りでしかないと初めは思っていた区境ですが、そこにあるものやなくなったものに思いを馳せた時、私もまた退屈な日常の境を越えられたのかもしれません。         (今井 徹)


新宿区の地図 

白地図専門店(https://www.freemap.jp/)の白地図を基に作成


          


豊島区との区境(犬の首根っこ)を豊島区側から撮影

写真奥は高田馬場駅前付近

@−A                    @−B

  

@−C                    @−D

  


         

渋谷区・港区との区境を渋谷区側から撮影

神宮球場側が新宿区、「近代ボウリング発祥の地」記念碑側が港区


A−A                    A−B

  


A−C






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2.工房制作物紹介 〜ガス湯沸器の操作ボタン

 車いす利用者のAさんから、「ガス湯沸器を新しくしたら、操作ボタンに手が届かなくなってしまった」という声が工房に寄せられた。

 これまで使っていた湯沸器にはホースの先端にも操作ボタンが付いていたため、車いすからでも手元で簡単に出湯・停止が出来ていた。しかしすでに製造中止となっており、今回は取り付けられなかったとのこと。新しい湯沸器の操作ボタンは、腕を目一杯伸ばしても届くか届かないかの距離。さらに水温の切り替えについても、操作ボタンのつまみが少し固いためAさんの力では回せなかった。そこで、車いすからでも無理なく操作ボタンが押せ、且つ水とお湯の切り替えも簡単にできるよう、工房で工夫することとなった。

 毎日使うものなので、まずは応急処置としてリーチャー(操作ボタンを押すための棒)を製作し、操作ボタンを押せるよう対策を講じた。しかしリーチャーを使って操作ボタンを押す動作は、腕の力や握力の弱いAさんにとっては少なからず負担がある。そのため、用具を持たなくても簡単に押すことができるよう、車いすから手を伸ばした位置まで操作ボタンを延長することにした。

 ガス湯沸器は、Aさんや家族、介助者など、日々様々な人が繰り返し使用するため、耐久性が求められる。使用する材料や作りについて検討を重ね、試作を繰り返しながらの製作活動となった。延長した操作ボタンの先端には棒を取り付け、てこの原理で軽い力でも水とお湯の切り替えができるよう工夫した。


  





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3.新型コロナウイルス感染症について


 新型コロナ感染者数が日を追うごとに増え、拡大の一途を辿っています。新宿ライフケアセンターの活動拠点である新宿区は、エピセンター(震源地)化していると言われ、歌舞伎町「夜の街」はすっかり全国区となりました。さらに、7月に入ってからは区の関連施設でも陽性者が次々と発表されています。

 現在、事務所の人の出入りは最小限に、例年に比べ静かな日々が続いています。当センターでは、感染予防対策を始めた2月初旬頃から長期戦になりそうだと話してはいたのですが、梅雨も真夏も気を緩める時はひとときもなく、秋冬を迎えることになりそうです。今後は、第2次補正予算で組まれた新型コロナウイルス感染症緊急包括支援交付金への申請を行い、更なる感染予防のための各種物品の購入を予定しています。


 利用者の皆さんも、通所や通院等を含めた外出を控える、こまめな手洗いが難しいため消毒用アルコールを携帯するなど、それぞれに工夫されてコロナ生活を送っています。しかし、外出自粛の影響を受けて、生活リズムの変化による何となくの体調不良、いつものことがいつも通りにはいかないことによる小さなストレス、動きの減少による筋力の低下等も見られます。施設やグループホームで暮らしている利用者に、家族が自由に面会できない等のもどかしさも抱えています。

 そんな日々の中、毎日の介助が必要なことに変わりはありません。食事介助に、排泄介助に、入浴介助に、移動介助に・・・。とにかくコロナをもらわないように、そして運ばないように、移さないように。

 利用者も介助者も様々なことに気を付けつつ、緊張感を保ちつつ、ケアの現場は毎日動いています。


 治療方法が確立されていない現状において、できることは感染リスクを高める行動を慎むこと、免疫力を落とさぬよう留意しながら生活していくこと。

 新しい生活様式、ウィズコロナなどと言われますが、一人歩きする言葉に振り回されることなく、こまめな手洗いや消毒、マスク着用、換気に三密回避と繰り返し努めていきましょう。日々向き合う人との繋がりをしっかりと作っていきましょう。



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