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ゆうゆう111号

2019年 1月 3日発行

1.古地図で見る 新宿区A 〜「ツツジと鉄砲」〜
2.ケアセンターあれこれ

3.編集後記


 日ごろな一枚

     

最近、目を奪われたイルミネーションです。

場所は外苑東通り沿い、四谷3丁目の交差点を信濃町方面にちょっと進んだ右側です。

いきなり漢字で「左門町」が出現!! びっくりしました・・・。

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1.古地図で見る新宿区A 〜「ツツジと鉄砲」〜


 「今年は暖冬」と聞いた時は安心していましたが、別に寒くないわけではないので近頃はなんだか損した気分です。「温かい料理が食べたいな」と高田馬場をうろつくと、本場の火鍋や麻辣湯を出す店ができたのに気づきました。調べてみるとどうも最近増えた中国人留学生向けらしく、少し前はリトルヤンゴン(ミャンマー人街)と呼ばれていたことを思い出せば、国際化の目まぐるしさに驚かされます。そういえばコリアンタウンで有名な新大久保も最近はイスラム化が進んでいるとか。さて、そろそろ前回に引き続き古地図を広げて、いま触れた大久保の辺りでも見てみましょうか。

    

 大久保がグローバルになったのはここ三、四〇年ぐらいのことで、韓国人が集まったのは単に家賃が安いのと日本語学校や盛り場の歌舞伎町に近いことが理由だったようです。ではそんな大久保の江戸時代はどうなっていたのでしょうか、@の地図をご覧ください。ペリーが来て五年、ハリスが来た安政五年(一八五八年)ごろです。これで大体北は大久保三丁目まで、南は新宿六丁目までです。大久保から西の百人町の方まで空白が目立ちますが、東側は少し建物があります。尾張徳川家の下屋敷・戸山荘(今の戸山公園や戸山ハイツ)の南、大聖院や専念寺などは今もありますね。あとは……特に何も。まあここもやはり田舎だったのでしょう。


 でも、ちょっと待ってください。何か引っかかるものがあってゆうゆう一〇五号を開くと、皆中稲荷神社の記事で「百人町には幕府の鉄砲百人組のお屋敷があった」と書いてあります。嘘だったら大変なので、他の古地図で確認しました。Aの地図は@と同じ頃で、@の西半分に該当します。広大な百人組の土地は、現代だと真ん中を山手線がぶった切り、北は西戸山公園の野球場、南は職安通りを越えた辺りまでありました。大繩地(おおなわち)というのは同心(どうしん・百人組の構成員の武士)たちの居住区で、角場(かどば)は射撃場です。東側の農地は西大久保村の農民と鉄砲玉薬組の同心達がピアノの鍵盤のように細かく分かれて耕作していました。大繩地も人数の割に広いのでやっぱり耕作地があったのでしょう。ということで、省略されていただけで@の空白のほとんどは百人組の土地か農地だったというわけです。今回はもう少し彼ら百人組に焦点を当てて大久保という土地を見てみましょう。

 

 大久保の百人組が作られたのは関ケ原の戦いの二年後、慶長七年(一六〇二年)のことです。名前の通り百人の同心と、二十五人の与力(よりき・同心の管理職)と一人の頭で構成されています。他に三組あって、根来組・甲賀組・伊賀組と構成員の出自で呼ばれていました。一方、大久保の百人組は確認されている限り構成員の出身地はバラバラで、与力が他より五人多かったことから二十五騎組(与力は建前上は騎兵です)とか、土地にちなんで大久保組と呼ばれていました。他の三組が忍者っぽいように、彼らも戦国時代を生き抜いた鉄砲のスペシャリスト達で、それが百人も集まっているんですから大変なことです。これは『鬼平犯科帳』で有名な火付盗賊改方をしていた先手組(さきてぐみ)の鉄砲隊が一組二〇から五〇人だったのと比べればかなり大人数です。そして百人組はそれぞれ大久保や牛込、四谷、千駄ヶ谷など江戸の西部に組屋敷が置かれます。つまり彼らは反乱を起こしかねない西方の有力大名達への防備だったのです。大人数で銃を携えた百人組は非常時の要として期待されていたことでしょう。逆に万が一江戸城が落ちた際に将軍が甲州街道沿いに逃げる時のお供にする為だったというお話もあります。


 そんな大任を受けた百人組でしたが、日常の業務は江戸城の大手三の門(現在も皇居東御苑に番所が残っています)の警備だけでした。それも根来・甲賀・伊賀・大久保の四組で一つの門を守るのですから、一人の勤務は月に何回あるかというレベルです。稽古もゆるゆるで、楽そうですがすごい薄給なので前述の通り大久保百人組は農業と二足の草鞋でした。初めに未開拓地として与えられたからか他の三組と比べても大久保組の土地は大幅に広く、他人に貸して住まわせたり農地として農民に貸したりしていたようで、使えるものは何でも使おうという強い意志を感じます。

 それでも食っていけなかった大久保百人組が始めた副業がツツジの栽培でした。新宿区の区花はツツジなのですが、それはここに由来します。この副業は大当たりで、江戸時代の後半には組屋敷内が観光名所になっていました。霧島という赤い品種が有名で、『遊歴雑記』という史料は「黄昏時でも数千万憶のツツジがお互いの色や艶を映し合って、夕陽がこの地に留まっているようだ」と詩的に称えています。

 こうして結成から二〇〇年ものどかにやっていた大久保百人組ですが、幕末からは一転。

次第に従隊上覧(行軍の練度検査)や銃隊調練などが増え、文久二年(一八六二年)にはついに廃止。再編成されてからは将軍の上洛に付き従ったり、上野で天狗党と戦ったりしました。明治維新後は帰農した後、一時的に薬園培養方に命じられて自分たちの大繩地で薬草栽培に従事しました。その為に処分してしまったのか、大久保からツツジはいったん消えてしまいます。その後、培養方の任が解かれると組屋敷の土地は安く払い下げられ、元大久保百人組の人々の多くはしばらくこの土地に住みついたようです。Aの地図を現代の地図と見比べると、全龍寺や長光寺は現存していて、大繩地を南北に三等分する区割りがそれぞれ大久保通りや職安通りなど現在の道路に対応しているのがわかります。

 その後大久保のツツジがどうなったのかもう少しお話しすると、明治も落ち着いてくると昔を懐かしんだ有志が立ち上がり、明治一六年に大久保躑躅(つつじ)園が開設されます。Bの地図は大正時代ですが、ご覧のように百人町三丁目のほとんどを占めていて七〇〇〇坪もありました。すぐ周辺にも躑躅園が作られ、花盛りの季節になれば臨時電車が増発されて大久保に東京中の人々が集まったそうです。しかし段々経営が悪化し、大正に入ってからツツジたちは舘林のつつじが岡公園や日比谷公園などに移されました。次々躑躅園は消滅し、大久保は住宅地化していきました。

 「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と唐の詩人は人の世の儚さを詠ったものですが、実際はそう上手くはいきません。住む人が移り変わるならそこに咲く花も変わってしまうのでした。かつて大久保百人組がこしらえた絶景はもう見られませんが、ツツジは現在でも大久保の至る所で栽培されたり、つつじが岡公園からかつて移した樹を返してもらったり、とシンボルとして息づいています。           (今井 徹)

@安政改正御江戸大絵図(国立公文書館デジタルーアーカイブ、3コマ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542442

A大久保町市街図(東京都新宿区教育委員会編『地図で見る新宿区の移り変わり―淀橋・大久保編―』、人文社、18−19頁)

B大久保町市街図(東京都新宿区教育委員会編『地図で見る新宿区の移り変わり―淀橋・大久保編―』、人文社、312−313頁)

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2.ケアセンターあれこれ

・運動会報告

去る一一月二五日(日)、恒例の新宿ライフケアセンター運動会が戸山サンライズで開催されました。一四回目となった今回は約四〇名が集合。例年より少ないながらも初参加の利用者やケアスタッフもいて、新旧入り混じって車いすに乗り体育館を駆け巡りました。競技種目は昨年と同じですが障害物リレーにビーチボール(大玉ころがし風)が追加され、慣れない参加者は悪戦苦闘。最終種目後も三チームでカローリングによる優勝者決定戦までもつれこみ、大いに盛り上がりました。

こうして今年も楽しく運動会ができたのも、準備から当日までに多くの方々の助けがあってこそです。ご協力、本当にありがとうございました。次回はキリよく一五回、みんなで最高の運動会にしましょう!

 

     

・助成していただきました

〜ブルーレイレコーダーと                電動アシスト自転車〜


 この度、株式会社日本財託様の助成事業により、ブルーレイレコーダーと電動アシスト自転車を購入させていただきました。

 今回導入したブルーレイレコーダー「REGZA DBR―W2008」は、BDやDVD、CDの再生はもちろん、高画質化する機能を備え、大容量の記憶装置を持つ優れ物です。DBR―W2008を活用し、現場を撮影した映像資料を、勉強会や工房での活動の際の教材・検討材料としてどんどん使っていきたいです。

 また電動アシスト自転車「PAS with」は実際に走ってみると、アシストが力強いだけでなく制御が細かく利くので、混雑した路上でも安心して乗れます。バッテリーの保ちもよく、アップダウンの多い新宿区内での活動が中心となるケアスタッフの心強い味方となりました。

 以上の備品を助成していただいた株式会社日本財託様に厚く御礼申し上げます。

3.編集後記

深刻な人手不足の中、今年はケアスタッフ募集のチラシの大幅な刷新、スタッフOBOGが中心となった新歓、フェイスブックの活用と、皆様の温かいご支援を受けて広報活動を続けました。

嬉しいことに、一一月頃からすこ〜しずつスタッフ希望の連絡が・・・。また来年も続けて頑張ります!

皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。



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