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ゆうゆう122号

2021年 3月 18日発行

1.新宿の橋U 〜誰を待つやら くるくると〜


2.ケアセンターあれこれ


3.2020年度を終えるにあたって



日ごろな一枚

          

高戸橋付近から撮影した神田川の桜。(3月23日現在)

もうじき満開! 今年の桜は早いですね。

この機関紙が届く頃には、はらはら散り始めていることでしょう。

川面に浮かぶ花びらも楽しみです。




1.新宿の橋U 〜誰を待つやら くるくると〜

             


 梅が咲き、桜が咲いて、と日に日に季節の変化を感じ、服を一枚脱ぐか着るか悩むのも喜ばしい時期がやってまいりました。昨年は世の中色々なものが一変してしまい、みなさん難儀されたことと思いますが、今年はきっとよくなると信じて暮らしていきましょう。フーテンの寅さんの名口上にもこうあります。「一度変われば二度変わる、三度変われば四度(よど)変わる、淀(よど)の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」


 さて、そんなわけで今回は淀橋のお話です。新宿区の西、青梅街道上で神田川を通して中野区に架かるこの橋は、今では新都心の高層ビルに囲まれてひっそりと佇んでいます。しかし、その名は江戸時代から高名で、明治には辺りの農村を合わせて淀橋町、昭和には更に周りの町を集めて淀橋区と町の名前になるほどでした。新宿駅も歌舞伎町も早稲田大学も元はみんな淀橋区のあった地域にあったんだから、新宿の顔は淀橋だったと言っても過言ではありません。新宿駅西口にでっかく構えたヨドバシカメラも、もちろん淀橋に因んでいます。それほど新宿に大きな影響を与えてきた淀橋がどんな橋だったのか、少し歴史書を紐解いてみましょうか。

        


 淀橋の様子が図@(江戸時代後半の地誌『江戸名所図会』より)です。二つ板橋が見え、青梅街道を渡る人たちで賑わっていますね。馬借や棒手振が往来を闊歩し、橋と橋の間、中州のようになったところには休憩できる所があって、どっかり腰掛けて扇子を仰いでいる人や、囲碁か将棋を打っている人たちの姿も見えて何とものどかです。それにしても、二つの橋のうち一体どちらが淀橋なのでしょうか? 右下の解説文を読みますと、「(略)大小二つの橋があって、橋のこちら側で水車が回っている(左のページ下真ん中寄り)のを山城の淀川になぞらえて淀橋と名付けると将軍からのご命令があったので名前としたと言われている。大きい橋の下を神田上水(神田川)が流れている」とありました。位置関係を整理するために図Aをご覧ください。これは『上水記』といって江戸時代の後半に幕府が上水についてまとめた本のものです。「淀橋」とある橋が渡す神田上水の本流と玉川上水から延びる助水堀(神田上水の水を補う為に作られた用水路)の二つの水流があり、助水堀の方は青梅街道上では埋樋(暗渠)となっていました。さらに助水堀の東側には「水車持 久兵衛」の書き込み。ここで図@に立ち返り、水車の辺りに目を向けますと、一見水車を回す水がないように見えますが、その斜め上に水車に向かってずいと延びる溝のようなものが確かに見えます。これが恐らく助水堀から出た水路で、水車に近い手前側の橋が大橋、つまり淀橋ですね。この図は北から見た眺めということになり、小さい方は南の方で神田上水からとられた用水に架かり、小淀橋と呼ばれていたそうです。ところで、先程の解説文に戻りますと「水車が回っているのを山城の淀川になぞらえて」とありました。山城とは今の京都府中南部辺りにあった国の名で、淀川はそこを流れる川ですが、ここではその畔にあった淀城、そこに設けられた大水車のことを指しています。名物として山城国のみならず国中に知られ、冒頭の「淀の川瀬の水車〜」とはまさにこの水車を歌ったものでした。つまり淀橋は将軍が川辺に水車の風景を見て「淀に似ているなあ」と思って名付けたということですが、実は異説もあります。淀とは餘戸という古書にあるこの辺りの地名であるとか、この橋がある場所がちょうど四つの村の境辺りにあるから四所橋、それが訛って淀橋だとか。そして更に淀橋は本来別の名前で、不吉だから変えられた、というお話もあります。すなわち、元の名は「姿見ずの橋」。


   


 その由来には有名な中野長者(朝日長者)のお話が絡んでいて、おどろおどろしい怪談で、一攫千金の埋蔵金伝説でもあります。中野長者はその名の通り中野に住んでいた大金持ち。本名を鈴木九郎という室町時代の商人で、馬売りをしてどうにか生計を立てていました。ある日一族で崇めていた神様(熊野十二所権現の一つである若一王子)の祠で「馬を売って大観銭(中国の国・宋のお金。日本に渡来して当時市場で使われていました)が手に入ったら全て奉献します。どうぞ幸福をお授けください」とお願いしたところ、売上は全て大観銭で、彼は本当に全部祠に納めました。その後帰宅すると家中に黄金が溢れかえっていたそうです。一躍長者となった彼が神様に感激して建てたのが今の西新宿の熊野神社というわけですが、ここからお話が血なまぐさくなります。財宝が多すぎて蔵に収まらなくなり、中野長者はどこかに隠さなければならなくなりました。十七世紀後半、徳川綱吉の治世に成立した地誌『紫の一本』によれば「漆千盃、

朱千盃、黄金千両、銭十六万貫」を「朝日さす夕日かがやく藤の木の下」に埋めたというのですが、彼は宝を埋めさせた下働きを口封じに殺してしまったのです。中野長者と何か荷物を背負った下人、行きは二人であの橋を渡ったはずなのに、帰りは一人で戻ってくる……村人達はそれを見て「姿見ずの橋」と呼ぶようになった、というわけです。ちなみ中野長者はその後天罰覿面で、大事な一人娘の婚約者を決める度に死なれ、娘もある晩大雨が降ると大蛇に変じ、池に飛び込むという悲劇。彼は嘆き悲しみ、高名なお坊様にお願いして娘の魂を救ってもらい自らも仏門に入ります。それで正蓮と名を変え、自宅を取り壊して成願寺(中野区本町)が建立されました、という結末。ですが、中野長者伝説にはたくさんのバリエーションがあって、その中の一つには娘が淀橋で身を投げて、小滝橋の辺りで死体が見つかった、だから昔は両者をそれぞれ「姿見ずの橋」、「姿見橋」と呼んだのだ……というのもあり、はたまた長者は全然関係なく、たまたま誰かが白蛇を殺した祟りであの橋を渡ったお嫁さんはみな姿が見えなくなるから「姿見ずの橋」だったのだ、というのもあります。いずれにしても淀橋は高名な割に不吉で不気味な場所という側面があり、特に婚礼の際などはこの橋を遠回りして渡らないという風習がありました。それは江戸が終わってなんと大正になっても続いていたようで、ある時「これではいけない」と有志が立ち上がります。大正二年、当時の新聞で「迷信打破の祭」と華々しく書かれたこのイベントは水上に桟敷を作って、神官が清めの儀式を行い、あの日本民俗学の父・柳田国男も招かれて「伝説の尊重と迷信の打破」と題して講演が行われました。クライマックスでは主催者の富豪の息子達の婚礼が行われ、自動車に乗せて花嫁が橋を渡ったそうです。それでどうなったか、柳田国男も興味があったようで、後年この件について文章で触れています。『橋姫』というその小文によれば、一年と経たずに花嫁が病気だとか不吉な噂がささやかれていて、どれも根も葉もないことばかりだったそうですが、やはりあの橋を渡って自由に縁組みが行われていることはないだろう、とのこと。


 百年経っても二百年経っても「あの橋さあ元は別の名前だったんだって」と言い続けていたのだから伝承の力恐るべしですが、さすがに今では誰も気にしません。水車も不吉な伝承も無くなった現在の淀橋は少し寂しい気もしますが、これから暖かくなってくる季節、穏やかな散歩道の一つとしてあなたを待っているのかもしれません。                                    (今井 徹)



図@『江戸名所図会』

(国立国会図書館デジタルコレクション、「江戸名所図会11 18コマ」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559050?tocOpened=1


図A『上水記』

(国立公文書館デジタルアーカイブ、『上水記』巻6、11頁)

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000032134&ID=M2010021620320047015&TYPE=&NO=


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2.ケアセンターあれこれ

10月

・居宅介護、重度訪問介護、移動支援新宿区実地検査

・令和2年度地域福祉振興事業助成金中間報告書提出(工房)

・令和2年度新宿区障害者福祉活動事業助成金中間報告提出(機関紙)

・新宿区社会福祉協議会 備品整備施設整備助成金支援事業報告書提出(エアコン取り付け工事)

・運動会練習会1回


11月

・運動会練習会3回


12月

・令和2年度東京都新型コロナウイルス感染症緊急包括支援事業(介護分)実績報告書提出

・新宿区障害者ケアマネジメント研修「障がいのある子どもと家族の伴走者えがおさんさんの実践から」参加



2021年

1月

・令和2年度新宿区社会福祉協議会地域ささえあい活動助成金交付事業実績報告書提出

・令和2年度介護事業所等への集団指導(書面開催)


2月

・令和2年度東京都新型コロナウイルス感染症緊急包括支援事業(障害分)実績報告書提出

・新宿区唾液PCR検査受検

・令和2年度第2回新宿区障害福祉サービス事業者等集団指導参加(書面開催)

・運動会練習会1回

3月

・令和3年度地域福祉振興事業助成金申請書提出(工房)

・登録喀痰吸引等事業者(登録特定行為事業者)登録申請書提出

・運動会練習会1回


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3.2020年度を終えるにあたって

 コロナ禍は2年目を迎えました。この1年、新宿ライフケアセンターの活動は発足以来かつてないくらい縮小しました。

 開催日ギリギリまで感染者数とにらめっこした運動会も、10年以上続けてきた「車いすをつかってあそぼう!」も中止、ほか勉強会や流しそうめんの会等々の行事もほぼ見送りとなりました。ケアスタッフ募集の広報活動も例年なら必死で(笑)行っているところですが、感染予防の観点から最小限のスタッフでケアの現場は動いています。

 多様な人々が集い交わってこそ新宿ライフケアセンターの強み。世間はリモートが流行りですがオンライン活用による楽しさはあまり見いだせず。旧態依然と言われればその通りとは思いつつも、今はできることを地道に一つ一つ実践するのみの日々を送っています。

 そんな中、今年度は数名の利用者との新たな出会いがありました。人と人との関係を築きにくいコロナ禍においての出会いは更に嬉しいもの。日々の暮らしとは何かということを改めて感じ考えます。コロナ禍で過ぎていく時間が自らの内に蓄える力となりますように、願いを込めて新たに2021年度を迎えたいと思います。




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