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ゆうゆう113号

2019年 7月  4日発行

1.古地図で見る新宿B 〜「新しい宿場町」〜

2.ケアセンターあれこれ



 日ごろな一枚

       

新宿4丁目にある天龍寺というお寺の「時の鐘」です。

江戸時代には、今号で取り上げている“内藤新宿”の人々に毎日の時間を教えていました。

一晩遊びころげた人たちが仕事に遅れないよう、朝は早めに鳴らしてくれる「追い出しの鐘」でもあったそうですよ。

1.古地図で見る新宿区B 〜「新しい宿場町」〜

 令和の世になりまして、皆様におかれましてはお変わりなくお過ごしでしょうか。昔の新宿を古地図で楽しもうというこの企画ですが、こちらも時代を一跨ぎ、また色々な場所を見ていきましょう。

 さて、今回は『新宿』という地名の元になった内藤新宿について主にお話しします。内藤というのは信州高遠藩(現長野県伊那市)藩主の内藤家のことです。その初代である清成は家康の下でバリバリ働いた三河武士です。徳川幕府成立後はこれまでの功績を以て大名に列せられ、江戸には広大な屋敷地を与えられました。一方、新宿とは読んで字の如く『新しい宿』で、つまり内藤新宿とは内藤家の屋敷地にできた宿場町であり、往時は大いに栄えた繁華街でもありました。

  地図@

 内藤新宿があったのは、地図@のように今の新宿1丁目(四谷大木戸跡)から新宿御苑に沿って、新宿3丁目交差点(追分)辺りまでです。実は新宿御苑というのは元々、先ほどお話しした内藤家の広大な屋敷地でした。しかし明治維新で召し上げられ、皇室のための庭園になってしまったのでした。現在では賑わいの中心からやや外れた印象のある一帯ですが、ちょっと375年ほど遡ってみましょう。地図Aは正保元年(1644年)から2年頃の内藤新宿周辺です。まだ新宿は影も形もありません。地図中に幾つも名前が見える「内藤弥三郎」というのが時の内藤家当主の重頼のことで、「久世三四郎」というのは以前ゆうゆう111号でご紹介した大久保鉄砲百人組の当時の組頭です。内藤家は百人組の二代目までの組頭を勤めていて、その時の縁で久世三四郎の部下である与力らが屋敷地に住んでいたと考えられます。ここで注目したいのは地図中央の大通り(甲州街道)の左端が分かれていく様子です。甲州街道は左に曲がり、まっすぐ進んでいくのが青梅街道、そうここが今の新宿3丁目交差点にあたる場所です。江戸が国家の中心となり、日本橋を起点に全国各地へと繋がる五街道が整備されたわけですが、甲州街道は万が一江戸城が陥落した際の将軍の避難路としての目的があったと言われています。理由としては街道中の甲府藩を治めるのが徳川家の一門であること、また沿道の四谷や新宿に強力な鉄砲隊百人組が配置されていたことなどが挙げられます。正保年間はすでに開府から40年ほど経っているのですが、この時点では正に百人組がかつてのボス共々街道沿いに起居していたということですね。とは言え、こんな広い土地全部が利用されていたとは考えにくく、文献によればこの周辺は未開の荒れ地が広がっていたようです。

  

    

 それから約半世紀の後、地図Bでは内藤家の土地に分散していた百人組与力が移動して、代わりに太宗寺や正受院など今でも新宿2丁目に残る寺院の名前が見えます。太宗寺は内藤家の菩提寺で、先程の重頼からの縁で歴代藩主の墓地が置かれました。そして、街道沿いに「此ヘン内藤シユクト云」(此の辺を内藤宿と云う)の文言が見えますでしょうか。この地図が発行された元禄10年(1697年)、高松喜兵衛ら5名の浅草商人が甲州街道の日本橋―高井戸宿間に新しい宿場の開発を願い出て、2年の後に開設されました。そうしますと、この地図に内藤シユク(宿)があるのは少々気が早いように感じますが、これは以前から内藤家の土地に非公式の宿場があったということです。もちろん正式な宿場町のように役人用の人馬の供給所や、参勤交代のような大名や大人数の武士を泊める施設はなく、おそらく街道の旅人や寺院の参拝客の為の茶屋や旅館程度だったと考えられます。日本橋から高井戸宿までは4里(約16キロ)あり、これは徒歩で行くには遠い距離です。そこでその真ん中辺りに自然発生した小さな宿場、しかも当時は街道の交通量が増えて宿場町の需要が増大し、併せて観光地や繁華街としての側面も持つようになった背景もあり、つまり格好のビジネスチャンスです。この為に商人たちは幕府に金5600両(一説に当時の換算で10億円)を納める条件を呑み、内藤家を初めとした武士たちは土地を召し上げられ、『内藤新宿』が大々的に開発されることになりました。

       

 許しを得た高松喜兵衛ら浅草商人は颯爽と現地に移り住み、開発に精を出します。彼らは名主となって町政を差配しました。内藤新宿は繁盛しますが、20年ほどで廃駅の憂き目に会い、また半世紀後に復活を遂げるという波乱万丈の生涯を送りました。残念ながら古地図で細かく描かれているものは幕末の地図Cしか見つけられませんでしたが、これによると東は追分から上町・仲町・下町に分かれ、西の四谷大木戸で出入りを管理されていた様子がわかります。大名や公家、お役人が宿泊する本陣や、公用の為に供給される人馬を管理する問屋所は仲町にあったそうです。全長は東西一〇町九間余り(約999メートル)で、廃駅直前の享保3年(1718年)には50以上もの旅籠屋がこの約1キロの間にひしめいていたそうです。甲州街道は東海道などに比べると参勤交代に利用されることも少なく旅人の需要が無い為、というのが表向き廃止の理由でしたが、その割にここまで繁盛していたというのは要するに、もっぱら繁華街として利用されていたということです。当時、風俗業は幕府の許可がいるのですが、多くの旅籠が飯盛女(給仕係)の建前で遊女を何人も抱えていました。そして享保とは折しも8代将軍吉宗の時代、質素倹約を目指す改革の煽りをモロに食らったというのが実際の理由でしょう。逆に半世紀後に再開されたのは、腐敗政治で名高い田沼時代です。明和9年(1772年)の頃は幕府の財政が悪化し、その補填の為に飯盛女への規制が緩和され、内藤新宿も冥加金(営業税)付きで復活を遂げ、明治維新まで繁栄を謳歌しました。

    

 鉄砲隊が側に控えた将軍の避難路の分岐点として始まって、太平の世には宿場町に変じ、享保の改革には廃止され、田沼のにごりには息を吹き返す。江戸時代の政治や空気の影響を受けて機敏に変わり続け、いつまでも新しさを失わなかったからこそ『新宿』という名前が人々の強く記憶に残り、今にまで残ったのかもしれませんね。              (今井 徹)


        


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2.ケアセンターあれこれ

4月

 ・平成30年度新宿区障害者福祉活動事業助成金報告書提出(機関紙)

 ・平成30年度地域福祉振興事業助成金実績報告書提出(工房)

 ・新宿区社会福祉協議会地域ささえあい活動助成金交付事業実績報告書提出(運動会)

 ・平成31年度新宿区障害者福祉活動事業助成金申請書提出(機関紙)

 ・新宿区障害者団体定期懇談会出席


5月

・運動会練習会2回

・新宿区社会福祉協議会地域ささえあい活動助成金交付事業申請書提出(運動会)


6月

・運動会練習会2回

・2019年度通常総会開催

・ケアスタッフ懇親会開催


2018年度事業報告

 ケア事業部門については、利用者のニーズや生活状況に応じて、介護保険法による訪問介護、訪問介護相当サービス、総合支援法による障害福祉サービス、制度外の介助サービスを行っています。年齢や生活状況の変化により利用できる制度が変わっても、切れ目のない支援体制を取れるよう取り組んでいます。一方、安定したケアの提供・質の向上を目指し、職員及びケアスタッフの確保ならびに育成に向けて努力していますが、人員不足の問題は継続しています。利用者の要望に十分応えられない状況を踏まえ、2018年度からは居宅介護支援事業を廃止し、ケアの提供に力点を置きました。とりわけ福祉業界に人員不足が生じている現在、効果的で即効性のある対策はないものの、当センターならではの魅力を発信しようと広報の在り方に工夫を重ねています。

 工房部門については、ケア事業部門や企画運営事業部門との連携を通じてニーズが掘り起こされ、一人一人に合わせた丁寧なものづくりに取り組みました。流しそうめんなど新たな行事開催に伴い、工房の活動も活性化されています。また、製作物等の成果は冊子やホームページ等を通じて情報発信され、広く地域に還元できるようにしています。

 2018年度は、当センター存続の危機感のもと、フェイスブックでの発信や新たに作成したスタッフ募集のチラシ配布などに取り組んできました。利用者の加齢に伴う障害の重度化、利用者家族の高齢化等により、求められるケアの在り方は多様化しています。当センターの役割や理念を再確認しつつ、当事者団体であることやきめ細やかな柔軟な対応ができるという当センターの特性や強みを活かし活動を展開していきたいと考えています。

【事業内容について】

●介護保険事業(訪問介護/訪問介護相当サービス/生活援助サービス)

●障害福祉サービス事業(重度訪問介護/居宅介護/移動支援)

●介助サービス提供事業(自費)

●障害者・高齢者の生活環境整備を行う工房(いたずら工房ピノキオ)

  ・製作活動(2018年度活動報告冊子参照)

  ・3Dプリンタの活用

●その他イベントや研修会の開催(企画運営事業)

  ・障害者と地域の人々がともに参加する運動会及びその準備会の実施

  ・介助技術講習会等の実施

  ・ジャパンDIYホームセンターショウの見学

  ・国際福祉機器展の見学

  ・流しそうめんの会開催

  ・春のお出かけ「ボウリング」の開催

  ・ケアスタッフチームミーティングの開催

●機関紙発行等の広報事業

 ・機関紙「生活交差点ゆうゆう」年5回発行

 ・メールマガジン隔週月曜日発行

 ・ホームページ、フェイスブックの更新、管理

 ・NPO、ボランティアサイトへの登録

 現役とOBOGによるケアスタッフの勧誘活動


2019年度事業計画

 ケア事業部門では、制度内・制度外のサービスを問わず安定したケアの提供と質の向上が図れるよう努めていきたいと考えています。障害福祉サービスから介護保険制度利用へ移行する利用者、施設入所後に制度外のケアを必要とする利用者など、各自様々なニーズがあり、これらに柔軟に対応していけるよう体制づくりを進めていきます。また、2018年度より居宅介護支援事業は廃止しましたが、引き続き利用者の方々が抱える課題や心配事に寄り添い、工房事業等との連携を図りながら必要な情報提供等、生活の支援を行っていきます。さらには地域の各関係機関とのネットワークづくりに向けて取り組み、その成果を活動に反映させていきます。 職員及びケアスタッフの安定した労働環境を整備していくため、処遇改善加算の申請等をはじめ事業収入の確保、各助成金の申請や寄付金の要請等を行っていきます。信頼の得られる組織であることを目指し、フェイスブック等インターネットの有効な活用についての検討を行いながら、広く当センターの活動成果を情報発信していく必要があると考えています。多様な人々が集い交わる場所であり続けることを目指し、企画運営事業の内容や情報発信、広報活動の在り方等、更なる検討を重ねていきます。

 2019年度は、当センター発足より31年目となります。これまで蓄積してきた人と人とのつながりや創意工夫を力に厳しい現状に取り組み、新宿という地域に根ざした活動を展開していきたいと考えています。                       2019年度役員体制                                                  理事長   畑山 正子                                                 副理事長  阿部 浩                                                  理事    刈谷 裕/草野 雅史                                            監事    杉森 知子

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