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ゆうゆう114号

2019年 8月  3日発行

1.古地図で見る新宿C 〜牛込に牛はいたか?〜

2.本のご紹介 〜『ママは身長100p』〜 著者 伊是名 夏子(いぜな なつこ)さん



 日ごろな一枚

      

8月5日(火)、この日の新宿区最高気温35℃。

同日22時、事務所前、31℃!!

アツィ〜〜!!!

1.古地図で見る新宿区C 〜牛込に牛はいたか?〜

 ひんやりしとしと続いた梅雨が明け、強烈な日射しとのギャップですでに溶けてしまいそうです。去年は『災害級』と謳われた猛暑でしたが、どうなってしまうのでしょうか。気が気じゃありませんがひとまず塵界を離れ、今回も古地図で新宿区を眺めてみましょう。

 今回は新宿の地名に多く残る『牛込』という言葉から始めます。牛込神楽坂駅・牛込警察署・牛込箪笥区民ホール……新宿区に古くからお住まいの方はご存知かと思いますが、これらは新宿区の前身の一つ、牛込区に由来しています。昭和ニニ年(一九四七年)、牛込区・四谷区・淀橋区が合併し、新たな区名として歴史的な由来があり、新宿御苑や新宿駅等で全国的に知名度の高かった『新宿』が選ばれました。牛込区の範囲としてはだいたい早稲田や神楽坂、市谷辺りまでを含みます。市谷を除いてその辺りを牛込と呼ぶのはもう大分前からで、秀吉の頃は『牛込七村』と呼ばれていました。さらに遡れば室町時代の初め(一三四〇年)に、区内のほとんどを含めた地域を『牛込郷』とする史料が残されています。これは新宿区の地名としては最古にあたります。

         

 それほど歴史ある牛込ですが、江戸時代の古地図ですとこんなものです。地図@ではよく目を凝らしても牛込とあるのは神田川沿いの『牛込水道町』と外堀の『牛込御門』(以前その名残である『牛込見附』をゆうゆう一〇七号でご紹介しました)ぐらいでしょうか。だからと言って牛込の名が影の薄い存在だったわけではありません。当時の地誌を開けばこの地域全体が牛込とまとめられていますし、幕府の公文書では地図上の多くの町や門前町の頭に『牛込〇〇町』『牛込〇〇寺門前』と片端から牛込が付いていて、古地図上ではそのほとんどが省略されています。それにしても、早稲田の方はともかく神楽坂の辺りは随分賑やかですね。これは幕末の地図ですが、牛込の東側は江戸の初期から武家屋敷と町屋が集まっていました。また今も町名として残る揚場町や神楽河岸の通り、神田川の船着き場の荷揚げ場所でもあり、つまり物流の拠点でした。人と物が集まれば栄えるのも当然で、神楽坂通り沿いの『毘沙門』とだけ書かれた善國寺(ゆうゆう八七号でご紹介した山ノ手七福神の毘沙門天様です)の縁日など門前町でのお祭りや数々の見世物で江戸でも有数の華やかな街になっていたようです。

  


 ところでそんな牛込ですが、その語源は「牛のたくさんいるところ」という意味です。地図が残っていない古代、牛込には神埼牛牧(かんざきのうしまき)と呼ばれる牧場があった、と昔の人々には考えられていたからそう呼ばれました。この牧場では酪農が行われていました。飛鳥から平安の律令政治の時代にかけては、全国に牧場が作られて牛乳を朝廷に献上していたのです。当時、牛乳は煮沸してそのまま飲むか煮詰めてバターや無糖の練乳のような『蘇』に加工し、薬だったり仏教の供物だったりとして利用されていました。東京には他に檜前馬牧(ひのくまのうままき・現在の浅草周辺)、浮嶋牧(うきしまのまき・現在の本所周辺)があり、生育環境や作業員の服装にまで気を配って衛生的かつ経済的に経営されていたそうです。でも平安時代が終わり、律令制の崩壊とともに日本の酪農は廃れていきます。仏教の不殺生戒のせいか、薬や供物としての利用が中心だったせいか、はたまた単に舌に合わなかったせいか、牛乳は食文化として定着しませんでした。

             

 これで牛込と牛の縁が終わってしまったかというと、実はそうではありません。江戸時代が終わり明治四年(一八七一年)頃の牛込、地図Aはずいぶんと様変わりしています。これはどうしたことでしょう、空欄や『ヤシキ』とだけ書かれたスペースがあちこちに増え、更に『桑茶』『クハチャ』という字が見えます。明治維新により失職した武士たちが国元に帰り、また商人たちも引き上げてしまい、東京の人口は一〇〇万人から五〇万人ほどに半減してしまったそうです。『クハチャ』とは東京府の政策で、食いはぐれて帰るところもない武士たちの為、その空いた屋敷地を耕地として払い下げ、桑と茶を作るよう奨励した結果です。この時東京府内には合わせて一〇〇万坪の桑茶畑が広がっていたそうです。そして、牧場もまた失業者たちの転職先として奨励されました。幕末、横浜の外国人居留地ができたことで再び飲料としての牛乳の需要が生まれ、東京が首都になれば外国公館が置かれるようになり、都心は酪農地帯に変わって行きました。この商いは明治元年から始まり、外国人のみならず日本人への普及が目標でした。国民の健康増進、また母乳の代替飲料にもなるということで、官民一体となったこの広報活動には天皇陛下まで動員され、「陛下は毎日二回牛乳を飲む」などというニュースが新聞に載ったとか。こうして牛乳の消費が増えたことで東京の乳牛牧場はどんどん増え、相撲になぞらえた牛乳番付表まで作られました。明治二一年の『大日本牛乳搾取業者番付表』(三頁)では、西は小結に牛込新小川町の愛生舎、東は前頭に牛込西五軒町の開乳舎と以後いくつも牛込の業者が並びます。東京府の統計によればこの年、牛込区内の業者の数は二六、区内の乳牛は二〇九頭、他区に比べてもトップクラスに酪農が盛んな地域でした。

 ただ、この栄華は短いものでした。東京の開発が進み、空いていた土地は新政府の官庁や軍の土地として利用され、人口の増加に伴って住宅地となり、地価の高騰や臭いの問題などが発生。また法規制が進むなかで、明治三〇年ごろから牧場主達は郊外へ移転を余儀なくされ、都心から牧場は消えていきました。 こうして牛もいなくなり、合併で地名もめっきり少なくなってしまった牛込。今ではごく普通の都会ですが、調べてみると意外なこともわかり印象が変わりました。この記事の連載を始めてから、どんな町にも歴史があるんだといつも驚かされます。                                     (今井 徹)


地図@「安政六年分間江戸大江図」(『太陽コレクション「地図江戸・明治・現代」1江戸・東海道』付録、高橋洋二、平凡社、1977年)

地図A「明治四年官版東京大絵図」(『新宿地図集』、26-27頁、東京都新宿区教育委員会、1979年)

図:「大日本牛乳搾取業者番付表」(『大日本牛乳史』、244頁、牛乳新聞社、1934年)



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2.本のご紹介 〜『ママは身長100p』〜 著者 伊是名 夏子(いぜな なつこ)さん

 彼女が新宿ライフケアセンターの利用者としてやってきたのは、早稲田大学四年生のとき。骨の弱い障害「骨形成不全症」で、電動車いすにチョコンと座っている小さな女の子でした。でも、そのからだから溢れる熱量は大きく、ハキハキ・ポンポンおしゃべりして、第一印象は「とても楽しそう!」。かれこれ一五年くらい前のことです。

 そんな彼女が、初めての著書を出しました。妊娠・出産・子育てのこと、障害のこと、家族のこと、夫婦別姓、性教育、おしゃれについて等々、たくさんの人たちに支えられている日々の暮らしが伸びやかに書かれています。

 そしてママになった今、人生を楽しむ力はさらにパワーアップしたような。子ども時代のつらい入院生活、結婚・出産への大反対、しんどいことも悲しいことも包み込み、「人は一人一人ちがうことをもっとみんなで考えたい」と体現、発信しています。

 気になる章からつまみ食いで読むのも良し、じっくり考えながら読むのも良しです。ケアセンターで貸し出しOK、アマゾンや楽天でも購入できます。

                

  ハフポストブックス  『ママは身長100p』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)定価1400円(消費税別)

【著者紹介】

 コラムニスト、1982年生。沖縄県生まれ・育ち、神奈川県在住。東京新聞・中日新聞、ハフポスト、琉球新報で連載中。早稲田大学卒業、香川大学大学院修了。アメリカ、デンマークに留学。那覇市小学校英語指導員を経て結婚。(著書より引用)

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