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ゆうゆう116号

2020年 2月 1日発行

1.古地図で見る新宿区E〜四谷南寺町界隈〜

 

日ごろな一枚

          


毎年恒例、本気豆まき。

よく見ると豆が飛んでいます。

鬼は〜外!

福は〜内!

これで今年も、無病息災ですね!




1.古地図で見る新宿区E 〜四谷南寺町界隈〜


 年明けて新年ムードは吹き飛んでも、寒さが緩んだり厳しくなったりでなんだか変な冬です。もう話題にするには遅いですが、みなさんは初詣には行きましたでしょうか? 近頃では『初詣は鉄道会社の宣伝から始まった新しい風習』という説が人口に膾炙して久しいですが、それだって立派な伝統です。散歩していて寺社に入ると、どこも縁起や由緒を書き立てて、多少建物が慎ましくとも物語を感じて有り難みが得られるというものです。


 本題に入りましょう。今回取り上げるのは四谷です。ここは前回の農村だった落合などに比べるとよっぽど都会ですが、じゃあ具体的にどこが四谷だったのかと言うと案外漠然としています。史料を見ますと、確かに今の町名の四谷(地図@参照)の辺りは江戸時代から四谷でしたが、以前取り上げた内藤新宿(現在の新宿御苑北の通りにあった宿場町)は別名で四谷新宿と呼ばれていたり、西新宿の方まで四谷の名が付いていたりする史料もあります。どうも江戸時代初期は四谷御門から西の一帯が四谷と呼ばれていたようなんです。その後江戸時代を通して範囲は細かく変わっていくので、今回は今の新宿通り(国道20号)を挟んで、地図@の色つきの範囲ぐらいにしておきましょう。これは四谷の鎮守様(その土地やそこに住む住民を守る神様)、須賀神社(地図@の?)の氏子(その土地に住んで鎮守様を信仰する人)地域に該当します。ちなみにこの須賀神社近くには、アニメ映画『君の名は』のラストシーンで有名な階段があります。


        


 四谷の区域が曖昧ならその語源も曖昧で、「よつや」だけに四つの谷があったから、四つの家があったから等の説がありますがはっきりとはしません。江戸時代以前には「関戸」と呼ばれる原野だったそうです。こんな伝説があります。四谷大木戸ができる辺りにはススキの生い茂る原があり、秋の朝露を蓄えたススキが風にうごめく様は潮の満ちるようで、通りがかりの日本武尊が「実に海原を歩くような心地だ」と感動し名付けて曰く、「潮踏野路」と。ただこのロマンチックな伝説も江戸時代後半の史料のもので、当時にはもうそのススキの原がどこにあったのかはわかっていません。なにしろ幕末の様子(地図A)を見たとおり、江戸時代の四谷は武士に寺社に町人がひしめき合っているのですから。先述の通り四谷は初め鄙びた一帯で、家康の江戸入り後から内藤氏などの一部の武家が拝領し、江戸の発展に合わせて人や建物が増えていきました。


 それにしても、古地図を見ている時いつも浮かぶ感想なのですが、お寺と神社が多いと思いませんか? のみならず、その多くが固まって密集しているのです。地図Aでは町人地・寺社地がそれぞれ塗り分けられていて、四谷もこれまで紹介してきたところに負けず劣らず50ほどの寺社がある上、そのほとんどが二つ以上隣り合っています。もしお寺がコンビニだったとしたら、血を血で洗う過当競争を強いられること請け合いですが、どうしてこういう風になるのでしょうか。少し考えてみましょう。


     


 お寺同士が集まった地域は「寺町」と言います。小さな農村などでは見られない風景で、一般的には近世以降、城下町に見られる風景です。城下町というのは当然計画都市で、寺町が生まれるには施政者側の思惑があると推測してもいいでしょう。ここで、四谷にびっしり並んだ寺社の由緒を一つ見てみます。地図Aでは街道近くにある祥山寺(地図@では?)は、臨済宗で創建が永禄2年(1559年)、元は麹町にありました。この地に来たのは寛永11から12年(1634年から1635年)頃です。ここは忍者の寺として知られています。この寺周辺には伊賀町という町屋があり、戦国時代に名を馳せた伊賀者達の末裔が住んでいました。祥山寺はそんな彼らの菩提寺(先祖代々弔われる寺)だったのです。そして、彼らがここに移り住んだのも寛永11から12年頃のこと。他にも調べますと、祥山寺の近所の法蔵寺(浄土宗、地図@?)、日宗寺(日蓮宗、地図@?)、東福院(真言宗、地図@?、豆腐地蔵という僧侶に化けて豆腐を買い食いしていた地蔵の伝説があります)と創建も宗派もバラバラなこれらの寺院は、どれも同じ2年の間に同じところから移転してきたことがわかります。これは四谷の多くの寺院に共通することで、その理由は寛永11年頃から江戸城外郭の拡張工事が始まったことにあります。外濠を作るために、外側に近い麹町の寺院や伊賀の人々は立ち退かされてしまったのです。もちろん幕府も鬼じゃありませんので、替わりの土地を与えられたわけですが、それがここ四谷。注目すべきポイントはこれらの寺院は移転前から麹町で集中していたことです。お寺が集まるのはやはり何か理由があるのかもしれません。このことについて歴史学の本を開きますとある解釈を得ることができます。それは、お寺は防御拠点だという考え方です。

 お寺は広い境内があり、石垣なども備え、しかも僧侶達が暮らすための物資も備えていました。西方から江戸に敵が攻め入った時、兵の駐留地や城郭として使うことができます。しかも、お誂え向きにその近くには江戸の警備を担う先手組や将軍を守る持組の組屋敷があるではないですか! こうしますと江戸を守るため、外郭の外側だった麹町から、江戸の拡大に合わせて更に外側へと寺町が配置されたのだという説も一理あるかもしれません。お寺はコンビニと違い、ちょっとやそっとじゃ変えられない檀家で安定した収入がありましたし、保証寺領を町人に貸し出して住まわせたり商売させたりする等サイドビジネスだってできました。宗派別で武士や町人など信仰される層も分かれますし、多少多いように見えても競争になることは早々無かったのでしょう。

 さて、今回はお寺をメインに四谷を見てきましたが、取り上げたお寺は現存しているものばかりです。初詣にはもう遅いですが、話の種に一度行ってみてもよいのではないでしょうか。             (今井 徹)


地図@ 白地図専門店(https://www.freemap.jp/)の白地図を基に作成

地図A 安政改正御江戸大絵図(国立国会図書館デジタルコレクション、3コマ)

     https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542442

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