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ゆうゆう121号

2020年 12月 27日発行

1.新宿の橋T 〜姿見よとや面影とや〜


2.第16回”コロナ・ミニミニ ”

  新宿ライフケアセンター運動会は中止しました


3.「車いすをつかってあそぼう!」

   開催中止のお知らせ


4.編集後記



日ごろな一枚

          

干し柿づくり。

ひたすら、延々と、皮を?いて紐をくくりつけての繰り返し・・・。

手間暇かけた甲斐があり、美味しい干し柿ができあがりました。





1.新宿の橋T 〜姿見よとや面影とや〜

 結局、年中丸々コロナに引っかき回される羽目になりましたが、皆さんはどんな一年でしたでしょう。来年は気楽に過ごせるといいのですが。

 さて、今回からは新宿周辺の橋について書いていこうと思います。町中にある橋と言うと有り触れていて鉄鋼でコンクリートで、平々凡々としたものですが、本やネットで調べると「これは」と言うものもあり、中々どうして退屈しません。感染予防で外出を控えている方等いましたら一つ暇つぶしにでもなれば、と書いてみます。


 今回ご紹介するのは面影橋。同じ名前の橋は全国にあるようですが、ここでは新宿区西早稲田3丁目から神田川に架かって豊島区高田2丁目に至る橋のことです。ごく普通のコンクリート橋で、傍には都電荒川線の面影橋停留場があります。日常の何気ない風景ですが、ここにはたくさんの(少し混み入った)伝承があるのです。面影橋の歴史は少なくとも江戸時代まで遡れます。橋の周りは大きな蛍の飛び交う田園で、絵の題材にも採られる風光明媚な場所でした。図@の浮世絵はなんと歌川広重作『江戸名所百景』の一つです。正面に見事なアーチ型の土橋(並んだ丸太の上に土を敷いた橋)で、端の方は草が生い茂っています。面影、という言葉にも何だかロマンチックなものを感じますが、由来として有名な「於戸姫伝説」が残されています。少し詳しく見てみましょう。

 於戸姫(おとひめ)とは人の名前で、戦国時代、和田靭負という男の娘でした。たいそうな美人で求婚者も多かったそうですが、その為に大変な目に遭ってしまいます。まず初めに父親の不在時を狙って関某という者が郎党を引き連れて家を襲撃。関はまんまと姫をさらいますが、逃げ道で気絶している彼女を死んだと勘違いしてその場に遺棄して逃走。姫は杉山三郎左衛門という近隣住民に拾われて保護されますが、程あって小川左衛門次郎という武士に再三求婚され妻となります。しかし、またしても悲劇。小川の友達である村上三郎が姫に横恋慕、夫の小川を殺してしまうのです。姫は長刀を携え敵討ち、逃げようとする村上の右足を薙ぎ払い最後は従者がトドメ。見事憎き相手を討ち果たしましたが、悲しみに暮れる姫は髪を切り、夜に紛れて家を出ます。そして橋の上で歌を詠みました。


変わりぬる姿見よとや行く水に

          うつす鏡の影に恨めし

(変わってしまったこの姿を流れる水に見ろというのか、鏡のように映る面影が恨めしい)


それから姫は自ら川に身を投げこの世を去り、人々はこの歌に因んでその橋を『姿見橋』と呼ぶようになったのです……あれ、面影橋は?


             図@

                                      図A


                         


 改めて@の浮世絵を見てみましょう。青々と澄んだ神田上水(神田川)を渡す橋の向こう、黄金色の稲穂の先、真ん中右端の方にもう一つ、小川に架かる橋があるのが見えますでしょうか。実はこの絵の題は「高田姿見のはし 俤(おもかげ)の橋 砂利場」。高田はこの周辺の地名、砂利場というからにはこの辺りで良質な砂利が取れたそうですが注目して欲しいのはそこではなく、この絵には姿見橋と面影橋、二つの橋が描かれていたということです。そしてメインは当然大きく書かれた土橋、それは題名で先んじている「姿見のはし」。題の順番を手前から奥にしていたのは『江戸名所百景』の他の絵等から類推できます。「面影橋は神田川に架かっているんでしょ、話が違うじゃないか」と首を傾げる前に図Aをご覧ください。こちらは『江戸名所図会』と呼ばれる江戸の寺社などの風物・名所を記した書物の挿絵で、開国に揺れる安政年間の『江戸名所百景』より少し早く出版されたものです。こちらも二つの橋でよく似た構図ですが、左側土橋の方に書かれた名前は「俤のはし」、左の小橋が「姿見橋」。図@と真逆で驚いて本文を読みますと、面影橋の項に「この橋を姿見橋というのは誤りである」と断言。ついでに、先程の於戸姫伝説について書かれた書物『南向茶話』は図会より約80年前のものですが「高田の末から向こうに渡る橋を姿見橋とも面影橋とも言う」とのこと。困りました。つまり、面影橋は?高田の辺りにある神田川に架かる橋、?高田の辺りにある神田川に架かる姿見橋の傍の小川の橋、?別名で姿見橋とも呼ばれていた、の三つの説があるということです。この問題については江戸時代の各史料間で諸説紛々としており、『南向茶話』よりもう少し古い地誌『江戸砂子』には「姿見橋、または推掛(おしかけ)橋という」とあって、もうメチャクチャです。橋の由来にも於戸姫以外にもあるんです。在原業平が橋の傍の池に映った長旅で減量した自分の姿を見て詠んだ歌に因んだとか、徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に見失った鷹の姿をこの橋辺りで見つけたことから姿見橋と呼ぶよう命じられたとか。昔の人にとっても昔のことはよくわからないものなんですね。

 あえてここで終わらずに「面影・姿見」問題について続けてみます。それぞれの史料を吟味していきましょうか。例えば広重の図@は図Aとよく構図が似ているので、実際には足を運ばずに描いている可能性がありますが、名前が反転している以上誰か現地の人に聞いたのかもしれません。広重は旅行の経験を基に『東海道五十三次』を描くなど取材に力を入れていました。また、現地の人といえば江戸末期に近隣住民が作ったこの辺りの地図があるのですが、そこでは「スガタミハシ」。これはさっきの三つの説のうち?が正しそうですが、ところがここで川向こうの雑司ヶ谷の住人による地誌が待ったを掛けます。寛政の改革から数年後に成立した『若葉の梢』は?派で「姿見の橋と取り違える人が多い」と。結局、これが全てなのかもしれません。要するに、面影橋と呼ぶ人も姿見橋と呼ぶ人も大分長い期間混在していて、近くの小橋を何となく大きい方とは逆の名前で呼んでいる人もいた、ということじゃないでしょうか。実は小橋の方は明治まで残っていたそうですが、近くの神社の池から田んぼに引かれた溝に架かった小橋で、当時を知る人からすると「何の風情もない」とのことです。

 於戸姫や在原業平が覗き込んだのは、果たしてどちらの橋のどんな水面だったのでしょうか?

                                                   (今井 徹)

図@『江戸名所百景』「高田姿見のはし俤の橋砂利場」

  (国立国会図書館デジタルコレクション)

   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312352?tocOpened=1


図A『江戸名所図会』

  (国立国会図書館デジタルコレクション、「江戸名所図会12 9コマ」)

   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994941/9



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2.第16回

  ”コロナ・ミニミニ ”

  新宿ライフケアセンター運動会は中止しました


 11月23日(祝・月)に開催を予定していた運動会は、新型コロナウイルス感染拡大を受け、中止となりました。

 障害の有無に関わらず、様々な立場の人たちが一緒になって競い合い、協力し合う場所としての運動会。コロナ禍でとても困難な状況が続く中、それでも何とか開催できるようにと、あれこれ工夫しながら準備を続けてきましたが、残念な結果となりました。

 準備に携わっていただいた皆さん、当日の参加を予定されていた皆さん、大変申し訳ありませんでした。来年こそは互いに元気な顔を見せ合い、多くの方々とともに楽しいひとときを過ごせることを願っています。

 なお準備期間の活動費については、「新宿区社会福祉協議会地域ささえあい活動助成金(歳末・地域たすけあい募金・赤い羽根共同募金)」 を受けて行われました。



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3.「車いすをつかってあそぼう!」

   開催中止のお知らせ


 毎年2月、地域の子どもたちを対象に早稲田小学校で開催しているイベント「車いすをつかってあそぼう!」 が中止となりました。

 コロナ感染拡大を受け、会場となる新宿区立小中学校の体育館等屋内施設が開放されていないためです。運動会に続きとても残念ですが、次回開催する際はぜひご協力下さい。




4.編集後記

コロナコロナ、コロナッと大変な一年でしたが、慣れたり飽きたりせず、もう一踏ん張りしましょう。

三密を避け、手洗い換気をこまめにやって、2021年が良い年になるよう願いましょう。


コロナ以外に書くことないなぁ〜、トホホ。


皆様、どうぞ良いお年を。 事務局一同



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