新規サイト001

ゆうゆう117号

2020年 3月25日発行

1.卒業生〜ひと言

2.古地図で見る新宿区F〜街の中心〜

3.「車いすをつかってあそぼう!」

          2020年2月16日(日)開催しました

4.編集後記


日ごろな一枚

          


イベント「車いすをつかってあそぼう!」の縁の下の力持ちは、何と言っても子ども用車いす。

新宿区社会福祉協議会、アビリティーズケアネット、さいとう工房、オオタ商会、ダスキンヘル

スレント板橋ステーション、移動サポート(敬称略・順不同)にご協力いただきました。ありがと

うございました。(詳細はP8で)




1.卒業生〜ひと言


中尾 徳志

大学に入学してからついに6年が経ち、僕も無事に卒業することができそうで安心しています。  


ケアセンターでは大学院1年生からの2年間お世話になりました。初めは研究室の先輩に誘われてなんとなく始めてみただけでしたが、今では、サークルを引退して所属するコミュニティが減っていた私にとって研究室以外で交流できる貴重な場だったと感じています。練習会やクリスマス会などのイベントでは多くの学生や社会人の先輩方、利用者の方々と交流することができ、処世術からマッチングアプリの使い方まで多くのことを学ぶことができました。また飲み会にも多く誘っていただき、皆様とお話できた時間は本当に楽しかったです。


2年間ケアを担当させていただいたAさんにも大変お世話になりました。初めは意思疎通が難しく何かと嫌な思いをさせてしまうこともありました。それでもケアを重ねるうちに、テレビで音楽が流れると手を叩いて喜ぶことや僕がもたもたしていると急かすように声をあげることが分かるようになり、これに応えることで次第にAさんが笑顔を見せてくれることも多くなりました。僅かなコミュニケーションの中でもAさんが喜んでくれると僕も幸せを感じることができ、Aさんの笑顔は僕にとって研究生活で精神的につらかった時期の癒やしになっていました。ケアに入れなくなり中々会えなくなってしまうのは寂しいですが、これからもAさんが笑顔で過ごせるよう願っています。


最後に、各イベントやケアの環境を整えてくださった職員の皆様、イベント準備などを協力し飲み会では気軽に声をかけてくださったスタッフ・利用者の皆様にお礼申し上げます。大変お世話になりました。来年度からは埼玉に勤務予定(本当は滋賀に行きたかった)になってしまったので、今後も僕にできることがあれば協力させていただきます! 飲み会にも誘ってくださいね! またケアセンターの皆様にお会いする機会を楽しみにしています。


                          


馬 琳嵐

2018年11月に学校でケアセンターの張り紙を目にして、ケアスタッフに応募しました。それがきっかけで、12月からBさんのケアに入らせていただきました。


依頼されていたのは入浴介助です。天井走行式リフトを使用し、訪問看護師さんと一緒にBさんの入浴介助を行っていました。最初は、水着を着て、Bさんと一緒にお風呂に入ることを聞いて、少し心配でした。「Bさんはどのような方なのか? 私にできるのか? ちょっと恥ずかしいなあ」と思っていました。

このような心境で職員のCさんに付いて、Bさんのお家で見学をしました。初めて知らない方のお家に入るので、緊張していました。ドアベルを鳴らしたら、Bさんのお母さんは微笑みながら、親切に迎えてくれました。それで、緊張な気持ちが和らぐようになりました。


Bさんとの初対面では、「Bさんこんにちは! 初めまして、よろしくね!」と声をかけたら、非常に良い笑顔で応じてくれました。その時、心配な気持ちはもう90%くらい吹き飛ばされたと感じていました。その日はケアの流れやリフトの使い方などについて、色々と勉強をさせていただきました。非常にやりがいのある仕事だなと、その時から深く感じ始めました。


その後、毎週月曜日に看護師さんと二人でBさんの介助を始めました。最も難しいと思ったのは、天井走行式リフトの使い方と、お風呂でどのような体勢でBさんをうまく支えられるのかでした。最初の頃、リフトを外からお風呂の天井へと繋ぐ方法を間違えたり、忘れたりすることが少なくなかったです。4回目くらいの時、またその繋ぎ方を間違えたので、このままではダメだと思って、当日に言われた方法を忘れないようにメモしました。その後、ケアに行く前に必ずリフトの使い方を復習することで、徐々に慣れてきました。そして、出来る限りBさんの体をお湯に浸からせながら、看護師さんの行動に応じて自分の姿勢を調整できるようになりました。


Bさんは体を動かすことや、言葉によるコミュニケーションができませんが、声や音をよく聴いて周囲の雰囲気を感じ取っています。嬉しいと感じている時のBさんの笑顔がとても可愛くて、心が癒されるように思います。


毎回ケアが終わったら、Bさんのお母さんはいつもお菓子を用意してくれて、お茶を飲みながら雑談をします。しかも、時々お母さんの手作り料理も食べられて、本当にありがたいと思いました。Bさんのお父さんはこのような雑談に加わらないですが、穏やかで、優しいお父さんのBさんへの愛情を深く感じることができます。

Bさんのお家は、いつも温かくて、愛情に満ちています。Bさんのケアに入ることができ、本当にありがたかったです。


1年間くらいのケアスタッフとしての経験は、私にとって大変貴重なものでした。あっという間に1年間が過ぎてしまい、もう大学院を卒業します。社会人になったら、Bさんのケアを続けられないですが、これからもBさん一家の温かさを忘れません。大変お世話になったBさんとご家族、および新宿ライフケアセンターの皆さんには、「本当にありがとうございました」と伝えたいです。

また会える日を心から楽しみにしています。




草柳 晃介

2年間NPO法人新宿ライフケアセンターのケアスタッフとして働かせていただき、ありがとうございました。月に1回、Dさんのケアに入れるかどうかという少ないシフトでも、真摯に対応、また、ご叱咤していただきとても良い経験ができたと実感しています。

ケアスタッフとしてはDさんのお仕事やイベントの手伝いをさせてもらいました。毎回丁寧に指示をしていただきブランクが空いてもDさんのサポートをこなすことが出来ました。また、Dさんのお仕事やイベントに一緒に参加させていただき、介護や医療の現場のお話や生の声を当事者から拝聴でき、考えさせられる場面が多々ありました。

2年間ケアスタッフとしてあまり貢献できず、練習会にも顔を出せず申し訳ありませんでした。ここで得た経験をこれからの社会で働く際に生かせると信じ、新社会人として頑張っていこうと思います。


                         


三宅 太文

この度、早稲田で学生生活を9年間送ってきましたが、晴れて博士号を取得し卒業することとなりました。

研究室の先輩に誘われてライフケアセンターに参加したのは大学4年生の時で、気づけば早6年もの月日が過ぎてしまいました。事務所での着替えや排泄のケアに関する勉強会、早稲田の街での車椅子体験等、参加当初のことを昨日のことのようにはっきりと覚えています。ヘルスケアロボットを研究する身として、生活のお手伝いをしながら色々と体験したいなという動機で始めたケアスタッフの時間の中で、ケアセンターには本当に多くのことを教えていただきました。ありがとうございました。


また、大学院の頃よりケアに入らせていただいたEさんにもお世話になりました。

あまり頻繁にケアに入ることができずすみませんでした。不器用で粗相をしがちな私は、初めてのケアに入る時は非常に緊張をしていたのですが、人見知りの私でもお話させていただきやすいくらいフランクに接してくださいました。勉強会等、精力的に活動をされており、その姿勢や取り組みの中からたくさんのことを学ばさせていただきました。 ケアという形で伺いましたが、その実、Eさんの勉強会に参加する心持ちで伺っていました。ありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしています。


地域の中で関わりを持ってケアに従事した月日は、研究室の中だけでは決して経験できない大切で誇らしい時間でした。

最後に、お世話になりましたEさんやライフケアセンターのスタッフの皆様に改めて感謝申し上げます。

ありがとうございました!

このページのトップへ





2.古地図で見る新宿区F 〜街の中心〜


 うんざりするような新型コロナ禍の最中、皆様はいかがお過ごしでしょうか? 自粛やデマで世の中しっちゃかめっちゃかですが、今はひとまず冷静に、手を洗い、人混みを避けてやり過ごしましょう。さて、今回はこんな時感染源として敬遠されがちな電車……の停まる駅のお話です。多くの人は、新宿と言えば新宿駅とその周辺を思い浮かべるのではないでしょうか。駅は人や病気を運ぶだけじゃなく、物資や商売など街に発展をももたらします。一日に300万人以上も乗降する世界一の新宿駅、その誕生前から古地図で見ていきましょう。


       


 まず新宿駅のある辺りは新宿区でも西の方で、これは江戸時代では田舎であることを意味しています。約350年前の地図@では隅の隅に描かれた、追分(青梅街道と甲州街道の分かれ道)の青梅側をぐっと西に進んだ辺り、正方寺(西方寺)と松平新太郎(岡山藩池田家3代藩主・池田光政)の屋敷地の間が新宿駅の建設予定地です。郷土史家によれば西方寺辺りにアルタ、抱屋敷辺りが西口広場だそうです。これだけだとあまりにさっぱりし過ぎて分かりづらいので、幕末まで時代を下りましょうか。地図Aでは高遠藩(現長野県伊那市)内藤家の下屋敷北に内藤新宿も生まれ、街の形が大分見えてきましたね。また追分から見ますと武士の屋敷地が並び、西方寺と松平範次郎の屋敷が出てきます。ややこしいのですが、この松平さんはさっきの松平新太郎とは別の家、高須藩(現岐阜県海津市)松平家の10代藩主・松平義建。この約24000坪もの屋敷地には新太郎こと池田光政渾身の庭園が造られ、隠居後の別邸等として利用されましたが、地図@の時代の少し後には高須藩の松平家に売却されてしまったそうです。義建の時代でも隠居後に魁翠園(かいすいえん)と号されたこの庭園では、春は梅に桜、夏は蛍……と四季折々に見所があったり、瀬戸から陶工を呼んで焼き物を作らせたりと往時は文化的で風雅な空間でした。それで本題に戻りますと、この武家地の並ぶ一帯で新宿駅の敷地となったのは成瀬隼人正、小栗猶三郎、間部下総守等(地図A参照)のものであったと考えられ、幕府が倒れて武士達が国元に戻った明治期、この辺りは荒れ地でありました。


     


 ここまでの話と古地図を見て、違和感を持った人がいらっしゃるかもしれません。「あれ、新宿駅って内藤新宿になかったの?」と。そうです、内藤新宿は追分のちょっと先の上町までで、新宿駅ができた当初駅の周りは雑木林と田畑の広がる風景だったそうです。地図BはAの約30年後、明治28年(1895年)の新宿停車場(駅)周辺。既に赤羽から品川を結ぶ品川線(明治18年開通、山手線の前身)と御茶ノ水から八王子を結ぶ甲武鉄道(明治22年開通、中央線の前身)の2線の中間駅として開業していましたが、この少し後にキツネの親子が轢死して事件になったそうなので駅周辺の様子は推して知るべしです。何故こうなったのかと言うと、通説では内藤新宿の住民の反対運動の結果今の立地に至ったと言われています。その理由は宿場町である内藤新宿の客を奪われてしまうから、また蒸気機関車の煙や振動が農作物に悪影響を与えるから、等々。ところで、日本が鉄道を導入し始めた時、こうした反対運動が沿線の街とりわけ宿場町で起きた話が全国各地で残されており、その結果ルートや駅の位置が変わったとされているのですが、歴史学ではそれらを総じて「鉄道忌避伝説」と呼ぶ向きがあります。新宿駅について今回調べた範囲では上に挙げたようなお話はよく見るのですが、それは所謂古老からの言い伝えを基としていて、それ以外の出典、例えば鉄道会社側の対応、どうルートを変えたのか等の史料はありませんでした。これは他の反対運動があったとされる街でもほとんどの場合同じで、このように言い伝えのみが独り歩きし、地方史や学校の授業で広まっていった鉄道の反対運動とその結果の物語を「鉄道忌避伝説」と言うのです。伝説を証明する史料が乏しいばかりか、実は逆に明治期の宿場町が率先して鉄道誘致をした例さえあるのです。既得権益者は時代の変化に逆らう、というわかりやすい構図でなく、案外柔軟に受け入れ生き残ろうとしていたというわけですね。それにそもそも駅を作るなら発展した市街地ではなく、町外れの方が土地も安く立ち退きの手間も少ないものです。新宿の場合ですと、先程述べたとおり元々は武士の屋敷地だったのでまさにこの解釈が当てはまります。とはいえ言い伝えが嘘だという根拠もありません。クドクドとじゃあ一体何が言いたかったのかというと……トイレットペーパーと同じで、情報をただ鵜呑みにせず自分で調べてみる姿勢が大事、ということにしておきましょう。失礼、大分脱線しました。


     


 そんなわけで当初反感を買っていたやもしれぬ新宿駅でしたが、地図Bを見ますと細かく区画の振られた内藤新宿に対して駅周辺はやはり空白の目立つエリアです。開設当初の乗降客も1日50人そこそこという今からは想像もつかない様子でした。しかし、駅の影響は確かなもので、この頃東口付近では各地から汽車で運ばれる炭を商う薪炭問屋が多数出現。今の紀伊國屋書店だってこの頃は炭屋としてもう新宿で商売していました。駅の側には掛け茶屋も出ていたそうで、街が駅に合わせて形を変えていく萌芽はもう現れています。西口側には建設中の淀橋浄水場が見え、Bの少し後には感光材料(六桜社、後のコニカ)やタバコの専売局などの工場もできます。その頃には鉄道の電化が進み市街線も開通し、朝夕には駅でラッシュアワーが見られるようになりました。それでも街の中心は依然として追分以東の内藤新宿であり、東京全体から見れば新宿自体が郊外ではありました。

 転機となったのは大正12年の関東大震災で、家を失った人々が東京市内から移転して郊外の人口が急増していったことにあります。市内へ至る各線との便がよかった新宿は格好の的となり、通勤通学、その他買い物娯楽にと人が集まっていきました。大正14年には初の百貨店ほてい屋が誕生し(後に伊勢丹に買収され店舗ごと新宿店に組み込まれます)、その頃の1日の乗降客は約80000人。駅の周りには歓楽街が形成されていき、江戸時代の内藤新宿は盛り場としての位置を譲ることになりました。当初武士達の去った荒れ地から始まった新宿駅は街の中心となり、新宿は東京屈指の街へと変貌していったのです。


 地図の端っこが今では一大ターミナル。古地図を見ているだけでは現在の大盛況は想像も付きませんが、二つの街道に挟まれたこの地が交通の要衝であったのも事実です。古地図を開く時普段は「昔はどうだったのだろう」と考えがちですが、たまには全然知らない場所を見て「この後どうなるのだろう」と推理してみるのも面白いかもしれませんね。                               (今井 徹)


        


このページのトップへ



3.「車いすをつかってあそぼう!」

          2020年2月16日(日)開催しました


 新型コロナウイルスの広がりを受け、例年以上に参加者の体調確認や衛生管理に気を付けながらの開催となりましたが、子どもたちと一緒に楽しい時間を過ごすことができました。開催日が一週間ずれていたら、新宿区関係の行事はすべて中止または延期だったそうです。ギリギリのタイミングでしたが、怪我もなく無事に終えることができ、ご協力いただいた皆様に深く感謝申し上げます。

 当日は、4歳から中学1年生まで、15人の子どもたちが集まってくれました。中には今回が5回目(!)という小学生もいて、主催側としては嬉しい限り。また来年も来てほしいですね。


 このイベントは車いす体験や講習会のような類のものではなく、遊びの中で車いすを「体感」してみよう、というもの。地域の子どもたち、障害のある人、ない人、みんな一緒になって、互いに協力し合いながら楽しむことに主眼を置いています。

 子どもたちは約2時間ほとんどずっと車いすに乗ったままで、あっという間に車いす操作が上手になり、走るのも速くなります。後片付けが終わる最後の最後まで、楽しそうに動き回っていて、中には「この車いす、買えるの?」と聞く小学生も! パラリンピックが彼ら彼女らにどのように見えるのか、少し楽しみな気もします。

 そして、子どもたちが自分の力で車いすを操って動き回るために必要不可欠なのが「子ども用車いす」。自分の体に合ったサイズでなければ、あんなにも思い通り自在に走り回ることはできません。でも、必要台数の確保は本当に大変です。今年も幾つかの関係機関にご協力いただき、なんとか人数分を用意することができました。

 また、東京都のボランティア情報サイト・ボラ市民ウェブの情報を見て参加していただいた方々、わせだ地域スポーツ・文化競技会関係者の方々にも、大変お世話になりました。様々なかたちで多くの皆様にご支援・ご協力いただき、本当にありがとうございました。また来年の開催をお楽しみに!

                                 ※この事業は、新宿区の支援を受けて実施しました。







4.編集後記

卒業生の皆さん、おめでとう!

あいにくのコロナ騒動で卒業式や関連行事が中止になり、とても残念ですね。

でもまぁ長い人生、いろんなことがありますよ。ただMくんの場合はちょっと

違って、九年という長い早稲田大学生活の始めと終わり、入学式(震災)も卒業

式も中止という憂き目にあう、大変貴重な経験の持ち主です。ひょっとしたら

Mくんは何かを持っているのかも(どっかから「ないない」と聞こえてきそう)、と

思わずにはいられない出来事だと俺は思ってますよっ!

皆さんの今後のご活躍を祈っています。


                            


このページのトップへ


トップへ

戻る


Copyright (C) shinjuku-life-care-center All rights Reserved.